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人は無意識に自身のものさしを作り、無意識にそのものさしで他人を測る。

似た形状のものさしをあてがわれると安心し、異なれば異なるほど嫌悪感を感じる。未知のものだとなおさらだ。

ここでいうものさしは”価値観”のことである。
自分の価値観で他人を測り、他人の価値観で評価される。
これは悲観的な話ではなく、ごく当たり前のことだ。

そのものさしは人の数だけ存在することを認知することが最初の課題である。
これは好む好まざるの話ではない。我々ひとりひとりに意思がある限りものさしは一つになり得ない。
集団生活をしている我々は、この現実を受け入れ対応するしかないのだ。

勘違いしてほしくはないのだが、受け入れると言っても迎合しろと言っている訳ではない。存在を認める、ただそれだけなのだ。
多くの争いは自分以外もしくは自分が納得・認知している以外のものさしの存在を認められないところから始まる。
端的にいうと、自分が持っているものさしでは悪と判断しているもの、もしくは測ることができない未知のものを悪として捉え、排除しようとするために争いが生じる。
ここで私が言いたいのは、悪として排除するのではなく、認知したところで思考を止めようということだ。
それを善だの悪だのと判断するのはあなたのものさしの都合であって、あてがわれた方は堪ったもんではない。

善か悪かのような書き方をしたが話はもっとシンプルで、要は好きか嫌いかの話である。
それが好きか嫌いかなんてことはどうでもいい。それで世界が変わる訳ではないのだから。

生きている限り大なり小なり他人との関わりが生じる。
その中で自身が要求を満たしつつ他人も満足するためには、ものさしの取扱いがキーとなる。

できるだけ多くのものさしの種類を認知し、状況に応じて適切に使い分ける。
相手を把握し目的達成のために自分はどう行動するべき考える必要がある。

他人は自分に合わせないくせに何故自分が合わせなければならないのかという話をよく聞くが、これは大きな間違いである。
合わせないのではない、合わせることができないのだ。
合わせることができない他人に自分が合わせることができるか。
ここが分かれ道になってくる。
合わせることができない人間になりたければそのまま文句を吐き続けるといい。

何度も言うが他人に合わせるとは言いなりになるという意味ではない。その人の尺度に合わせて会話ができるかという意味だ。
合わせられるものさしを持っていなければそもそも合わせることはできないし、持っていても当てるべきものが分からないこともある。分かったとしても当てる価値すらないと感じることもあるだろう。
その場合は無理に合わせる必要はない。合わないものは合わないと割り切ることも必要だ。

ここで重要なのは選択できる状態におくことである。
自身のものさししか持たないものは選択することができない。1つしかないのだから。

他人に合わせるという行為は、キャパシティに余裕があるものしかできない。
生きることに精一杯の人間に自分に合わせろというのは酷な話だろう。
これは心に余裕がある者の宿命である。早々に抗うことを諦めた方がいい。

また、ものさしは持っているだけで十分な効果を発揮するとは言えない。
多くのものさしを持つことはスタート地点に過ぎず、如何に使い分け合わせるかが重要である。
適切なタイミング、適切な相手に使えなければ殆ど意味はなく、持っていないのと同じである。それはあまりにももったいない。

如何に合わせるか。
こればっかりはトライアンドエラーしかないように思う。
怖いかもしれないが仕方がない。
ものさしを意識しながら話すことで、やらかしてもすぐ修正できるため致命傷には至らないだろう。

ここで決して忘れてはいけないことがある。
別の形状のものさしは自分で作っていることだ。
どう足掻いても自身の尺度がベースとなるため他人のもつそれと完全に一致させることは不可能に近い。
また、相手が自分にものさし全体を見せているとは限らないため尚更だ。
質の高いものさしを作るには適宜リシェイプしながら作り上げ近付ける必要がある。

実はこの作業は自身のものさしのリシェイプも兼ねている。
様々なものさしに出逢い作って合わせて終わりではない。
良いところを吸収するのだ。
こうして自身を更新し続けることで見えてくる世界がある。
世界は変わらない、見方が変わるだけなのだ。

最後になるが、この話を鵜呑みにするのは大変危険である。
この話は私のものさしで測った世界の話でしかない。
また、真っ向から否定するのも如何なものか。
そんなものさしを持った人間もいるのだなというところで思考を止めていただきたい。

あなたのものさしの一助となることを願って。

博士課程に進学した後の話をしようと思う。

進学までの話はこちらの記事を見ていただきたい。

 

どのように実験を進めたかというと、装置やサンプルの都合上大学で実験する必要があったため、会社から許可をもらい2, 3ヶ月に3日間程大学に行かせてもらった。

1年目の冬にコロナが流行り始めたため大学に行くことができなくなったが、1年間でデータをある程度得ることができており、致命傷には至らなかったことは不幸中の幸いである。

 

結果的に3年間で論文を3報出すことができ、留年することなく卒業できそうなのだが、実は1報目の論文が通ったのは3年生の6月であった。

1報目の内容を初めてを投稿したのが2年生の10月の頃であったが、3ヶ月後にリジェクトの通知が来た。

まあ初めてだしそんなもんだろうと気を取り直し、別の雑誌に投稿するも再びリジェクトの通知を受けた。この時3年生の5月であった。

 

焦った。非常に焦った。

想像した以上に査読には時間がかかり、簡単には受理されないことを痛感した。

修了には査読付きの論文が2報必要となっている。

他にも投稿中の論文もあったが、このペースで行くと後がない。

このとき初めて”留年”を覚悟した。

 

リジェクトされた後、急いで修正し、祈る気持ちで投稿した。

“3度目の正直。お願いだ、リジェクトだけは勘弁してくれ。”

 

すると1ヶ月もたたないうちに連絡が来た。

内容について質問されていたので答えると、すぐに返事が来た。

なんとアクセプトされていたのだ。

これには拍子抜けした。

あまりにもあっさりとし過ぎていたので、本当にアクセプトされたのかどうかすら疑うレベルだった。

指導教員にも確認し、HPも確認した。

やはりアクセプトされていたし、査読付きの雑誌でもあった。

 

ほっとしたのも束の間、2報目の結果が返ってきた。

どうだ…

どうだどうだ…

リバイスだ。

安堵するとともにすぐに修正した。

3年生の7月、無事2報目についてもアクセプトされ、最も重要な修了要件を満たすことができた。

保険で出していた3報目についても、11月にアクセプトされたため、ある程度内容のある博士論文が書けそうである。

 

不思議なもので、どんなに行き詰まっていても何か1つ上手くいくとトントン拍子に物事は進むみたいだ。

諦めなければどうにかなるということを身をもって体験することができた。

 

最後になるが、私は社会人ドクターを選択して後悔したことはない。

進学前に社会人ドクターに関する様々な記事を読んで、心の準備をしていたからかもしれないが、それ以上に得られるものがあったからだと思う。

1度社会に出たからこそ見える世界があり、その上で行う大学の研究はこれまでと全く違って見えた。(学生時代にふざけ過ぎていたせいもあるかもしれないが)

それを3年間で約190万円 (国立大学の入学金 + 授業料3年分) で体験できるなら、自己投資としては非常にコスパがいいように思う。

そして、博士課程に向き不向きなどないし、ちょっと違うなと感じればすぐ辞めればいい。

ちょっと違うかどうか感じるためにも1度は入学する必要があるが、損額は約55万円 (入学金と前期の授業料) で済む。

やらなくて一生後悔する可能性が少しでもあるならば、進学すべきである。

人生がかかっているのだ。55万円なんて大した額ではない。

 

社会人ドクターに挑戦する人が増えることを祈っている。