僕は他人が語ってくる理論の穴を見つけるのが得意である。
しかし自分の理論となれば別だ。
これは決して珍しいことではないだろう。
これは自身を第三者として観察できれば解決する話のであろうが、如何せん難しい。
僕は僕であり、第三者ではないからだ。
第三者として観察するメリットは、理論に対する情や思い込みがないことである。
ある程度フラットに物事を観察できるのだ。
第三者の視点を置き去りにすると、自分の気持ちが優先され、矛盾に気付かず話が飛躍してしまうことが多い。
自身にとって都合のいい解釈しか浮かばないのだ。
如何に第三者として自分と対話するか。
これに尽きる。
その方法の一つとして、“文字に起こす“という作業がある。
こうすれば、視覚的には第三者になりうることができる。
頭の中で考えるだけでは、当事者の域から出ることは容易ではない。
それでもやはり情や思い込みが消えることはないのだが、頭の中だけで考えるよりは幾分かマシであろう。
何か言いたいかというと、できる限り第三者的視点をもち、懐疑的に自分の思考や理論を捉え、ブラッシュアップすることが必要だということである。
そうすることで、自ずと成すべきことが見つかっていくのではないだろうかと感じている今日この頃である。