2023年6月3日土曜日20時25分
不意に親愛なる友人(以後M氏と呼ぶ)から電話がかかってきた。
もとい、M氏のスマホを使ったM氏の兄からの電話であり、受け入れたくない内容であった。
要件を聞き終わった後、予告なく溢れ出し止まらない涙に私にとってのM氏の存在の大きさと自分の血は赤いということを再認識した。

M氏は癌だった。
とはいっても数年前に癌と診断されたがこれといって目立った症状はなく、私が帰省する度に遊んでいた。歯が抜けても腰が曲がっても続く日々であると信じていた。ところが今年に入り急に症状が悪化したとM氏から連絡があり、その電話が彼との最後の会話となった。

悪化したと聞いてすぐ会いに行けばよかったと思わないことはないのだが、不思議なことに深い後悔はない。
私にとってM氏との想い出はそれほど美しく、完成された作品として認識されているのかもしれない。変に取り繕って汚したくない。
たしかに、会えていれば直接話すことができていればと思わないことはないが、別れを意識しているみたいで嫌なのだ。
別れが近いかもしれないから会うのではなく、遊びたい話したいから会うのだ。
私は彼を可哀想だと思いたくないし、彼とはいつ如何なるときも対等でありたい。
可哀想という言葉はどこか他人事で見下している気がする。彼は彼の生命を全うした。精一杯生ききったのだ。可哀想なことなどない。これに反論する方もいるだろうがそんなこと知ったこっちゃない。私はそう感じるのだ。それが全てだ。仕方がない。

人は死ぬと生まれ変わる輪廻転生という考え方があるが、私は割と強く信じている。
ただM氏が今この時代に生まれ変わってほしいかどうか問われると、個人的にはどちらでもいい。あまり興味がない。
非常に我儘であることは重々承知だが、私はM氏と同い年で同じ地域で幼馴染として過ごしたいのだ。
言うなれば、私が生まれ変わるのと同じタイミングで生まれ変わってほしい。今このタイミングで生まれ変わってもらっても構わないが、私の気持ちも考慮してほしい。まあ、私もいつか眠りにつくんでね、そこら辺はお互い上手いことするとしようではないか。

M氏との想い出は沢山ある。
クラス違ったけど特別に一緒に給食を食べさせてもらってたこと、休みの度に酔うまでブランコ漕いでたこと、M氏の畑で土遊びしてたこと、雨の中傘も刺さずどでかい雷を追いかけたこと、MATCHを全力で振って溢さずに飲もうとしたこと、地元に帰る度に永遠話しながらドライブで色んなとこに連れて行ってくれたこと、私の奥さん含めて鯛めしを食べたこと。
幼稚園から今までの想い出がコンスタントに存在する友人はM氏以外にいない。
私の人生を振り返る際、必ずM氏が存在する。
そのような友人に出逢えた私は幸せ者である。

また、M氏とはこれでお別れではない。今後も帰省の度に会いに行くし、私の愚痴や体験したことをこれまで通り聞いてもらうつもりだ。
これまでもこれからも。

またね。

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